高梁川の変遷 
高梁川の位置
岡山/広島の水系マップへ
 高梁川は、広島県東部から岡山県西部を貫流する中国地方有数の河川で、県中央の旭川、東部の吉井川と共に県南部の沖積平野を形成した。
 この流域には弥生時代の住居跡、水田跡、大規模な古墳群も残されている。中世には備中と呼ばれ、倉敷は備中国の物資の集積地として、また幕府の天領として、政治・経済・産業・文化の面で重要な地域であった。
 高梁川の名は、古くは松山川、あるいは川島川、川辺川とも呼ばれていたが、明治になって、備中松山が高梁と改名されたのに伴い高梁川になったと言われる。
   
 水運
 高梁川は「高瀬舟」によって、上流からは米・大豆・お茶・煙草など農産物、薪・炭、木材など林産物、鉄・銅・ベンガラ・石灰石・綿など工業製品を玉島港から瀬戸内海を経由して各地に運び、北海道などからの鰊粕・種粕等の肥料や生活物資を上流の町々に届け、当時のロジスティクに大きな役割を果たした。
 ※高瀬・・河川の段差・急流場所。高瀬舟は急な瀬を超せるよう平底型が特徴。
 高梁の街を上流に向かう高瀬舟  現在の高梁市外地風景
 エネルギー
 高梁川源流は中国山地1000m級の花見山、道後山など。
 支川の成羽川、帝釈川、小田川の源流域は広島県にある。
 中国山地は古来から陰陽とも砂鉄が豊富でたたら製鉄≠ェ盛んな地域、製鉄には「砂鉄」「燃料」を大量に必要とされ、砂鉄はかんな流し°Z法で採取、伴って大量の土砂が川床を上げ、河口では干潟を造った。
 資料によると、たたら1回で2トンの鋼塊を製造できるとすると、砂鉄は24トン、木炭は28トン、炭の原料木材は100トンが必要とのこと。当然、自然を傷めずには生産できず、近代は瀬戸内に鉄鉱石、石炭もしくは電気炉による製鉄所が生れ、技術者・労働者も山から里に移り住むことになる。
山野発電所
 川沿、海沿いに鉄路が敷かれ水運が陸運に変わり河川水利は発電に活用されてきた。
 水系には帝釈川,新成羽川など中国電力の水力発電所が6箇所およそ34万kwの発電設備がある。
 そのほか千屋(3千kw)・新見(1万kw)などに岡山県営発電所、高梁市成羽町羽山に農協の小水力発電所があるほか、広島県の源流域にも小水力発電所が多数存在する。
 小田川上流(福山市山野)には山野渓谷から導水した山野発電所(落差187m、出力2006kw)がある。

 水力発電の取水・水路などはかんな流し≠ノ磨かれた水路土木技術が活かされたものと想像する。
 流域の燃料とエネルギーは、薪・炭から電気にかわり、備中・備後の伝統産業の発展を支えた。

  広島県内水系マップへ>>  岡山県内水系マップへ>>
 
 川の生い立ち
 今の街並み、、古代は海原≠セった!?
 ▲吉備の穴海・・!? ▲山城に海路で来襲・・!?  ▲陸地に金毘羅石灯籠・・!!
 氷河期が終わり海面上昇で瀬戸内に離島が出現、岡山平野は、その昔は現在の児島湾の延伸で吉備の穴海≠ニ呼ばれ、岡山、倉敷中心部などは海原だったと考えられている。
 その後、自然の土砂や砂鉄採取のかんな流し%凾ノより干潟が拡大、江戸時代から各藩が干潟を競って干拓、明治以降は飛躍的に埋め立て農地や工業用地が拡大されている。
 海が陸地に変わる・・その過程では、海も陸地も領地や水利権、漁業権など、争いは絶えなかったと伝えられている。
 高梁川河口近くでは「連島」「乙島」「柏島」・・、沖に離れて「児島」・・、東には「早島」「簑島」・・まとめて『水島』、『玉島』と海原℃梠繧フ地名・町名が残る。
 古墳群は島々だったところでは見つかってなく、当時の陸地河口付近に点在する。
 これらから古代の河口は、高梁川は湛井(総社市井尻野)、旭川は玉柏、吉井川は福岡(長船町)あたりとみられ、高梁川は総社市井尻野付近で東に分流、吉備路を横切り、足守川につながっていたとの資料もある。
 右岸、真備側には「川辺宿」、付近の山すそに「金毘羅神社」、左岸の湛井には船の道標と思われる「金毘羅石灯篭」と伝わる遺構もあり、水運・海運の無事を祈願した証か・・、さらに湛井の隣には浜町の地名も残る。
 吉備路には吉備津彦命を祀る神社があり、あたりに津(港)≠ェあったことを確かに示す遺構・記録はないとのことだが、神社は「鉄」を意味する『真金村(宮内・板倉で真金村発足、後に吉備群真金町)』にあり、山陽道の宿場だった板倉口に「真金一里塚跡」が標されている。板倉村の地名は町村制以降であるが、ここの風景を詠んだとされる奈良時代の和歌集に「真金(まがね)吹く吉備の中山・・」という俗謡が残されてもおり、たたら製鉄≠ニの関わりがうかがわれる地域である。
 古代はこのあたりが海岸線とすれば船着き場を設け、鉄を積み出したとしても不思議ではない。
 吉備路を見下ろす鬼城山(397m)に古代の山城「鬼ノ城跡」があり、ビジターセンターの展示物に外敵は海路≠ナ来襲・・との記事があったことを思い出した。
 
    
真金村時代
 近代の高梁川下流部の水利と土地利用の変遷
 高梁川下流部は小田川との合流部付近から東西に分流していた。
 沖積平野の水害防止、水利利用の両面から時代に応じた改修が行われ、中でも明治から大正期に東西高梁川を一本にする大工事が行われた。
 西高梁川の上部は前後を堤防で〆切り、渇水対策用の貯水池(現在の柳井原貯水池)として残し、東高梁川は上部を開削して西高梁川に接続、水門(酒津樋門)と水路整備により干拓田畑への水利を確保しつつ河川としては廃止、廃川敷地は水路、鉄道用地、近代工業立地に利用した。
 また、高梁川東西用水組合が設立され、水利利用の円滑調整のほか設備維持、環境整備が図られた。
 なお、柳井原貯水池には上流から導水設備も設けたが、地質の特徴から漏水が著しく、ほどなく周囲からの自然水の貯水に限られたとのこと。。
 酒津樋門は国内最大級の現役樋門として土木遺産(土木学会)に選奨されている。
 【参考地図】
▲ 明治までの高梁川下流部は東西に分流▲  ▲明治後期の下流部地図 東・西に分流時代
 
 ▲大正時代の下流部地図 水利と水運の両立  ▲昭和40年代の下流部地図 水路から陸路(鉄路)へ
 
  ▲昭和後期の下流部地図 鉄道は新幹線時代へ  ▲平成に入った下流部地図 物流は高速道路へ 
 
 水害の爪痕 
 豊富な水は、水運を助け、エネルギーを生み出し、沖積平野による耕作地を広げ、人々の暮らしを支えた。
 反面、水のエネルギーは災害リスクとの隣り合わせで、旧藩体制時代は治水工法も限定され、各藩・水利権者の利害もからみ総合的な改修に至らず流域に幾度となく甚大な被害を与えた。
 明治26年災害  昭和47年災害  昭和51年災害
改修計画  
 小田川流域の宅地化が進み、その小田川は高梁川に比べ勾配が緩やかなことからバックウォーターや内水被害が繰りかえされた。
 平成9年に旧西高梁川(柳井原貯水池)に付け替え、本流への合流点を現在より下流に移設する改修計画が作られたが平成14年に計画が中断された。

 平成30年7月豪雨で残念ながら小田川流域、真備では警戒区域(ハザード区域)に昭和50年代と同様の洪水が発生、当時よりも宅地が増えたこともあり、住宅に壊滅的な被害と倉敷市域の人的被害の殆どが真備地区に集中するという痛ましい災害となった。
 平成の改修計画が迅速に着手、竣工していたらと悔やまれるのは本計画を策定された関係者ばかりではないと思われる。
 

Copyright© 2002 水のプログラム All Rights Reserved